memento mori

自分の考えていることを公開しようと思いまして

シニフィエとシニフィアン

 

日本人の挙動は他の文化圏の人から誤解されやすかったり

不可解にうつることが多い。

 

「日本人の握手は弱々しすぎる。ディールが終わった後の握手はもっと力強くやれ」

「笑えばなんとかなると思っている」

まぁ散々な言われようだというのが直感的印象である。

 

しかし、行動も言動も文化的なものであって、私たちの言葉や行いはそれそのもの以上の「副次的な意義」を孕んで他者に伝わっていく。

例えば、綺麗な服を着ていることが、見た目の美しさという絶対的な価値に加えて、「綺麗な服を着れる人は精神的経済的な余裕を持っている」というメッセージを載せてしまうように。

 

そしてその副次的意義を読み取るためのルール、すなわち「文化」が往往にして国によって違うので、私たちの間の文化の違いや価値観の違いうんぬんの議論は終わることがないのである。

日本人がよく笑うのだってそれが美徳とされてきた歴史がある故であり、歴史的実績はルールを生み出す。

手巾 (小説) - Wikipedia

大学教授の長谷川謹造は、窓際でストリンドベリの作劇の本を読みながら、庭の岐阜提灯を度々眺めつつ、日本古来の武士道というものを想う。そこへ、ある婦人が長谷川の元を訪れ、彼の元に出入りしていた学生が、闘病もむなしく亡くなったことを告げた。息子の死を語っているにもかかわらず、柔和な微笑みを絶やさない婦人だが、長谷川はふとした事で、夫人の手元のハンカチが激しく震えていることに気が付くのだった。夜、長谷川はこの話を妻に語りながら、この婦人は「日本の女の武士道だ」と激賞した。満足げな長谷川だったが、その後、ふと開いたストリンドベリの一節に目が留まる。「顔は微笑んでいながら、手ではハンカチを二つに裂く。これは二重の演技で、私はそれを臭味と名づける」――。 (Wikipidia あらすじより引用)

 

言葉も行動も、結局シニフィエシニフィアンの原理に集約される。

言った言葉が「それ」を意味する必然性などなく、

起こした行動が「これ」を意味する必然性もなく、

シニフィアンを定めるのは、シニフィエを理解してこようとした「文化」なのだ。

 

言葉や行動のなんと不確かなことか。

「良かれと思って」の元凶はこれか。